豊かな水を後世に。
水を願い、
水を守ってきた人々の歩み。
その記憶が境内に遺されています。
農民の父
「森宗勘」
(もりそうかん)
の記念碑
小野川刀渕水門開祖之碑(おのがわ たてぶちすいもん かいそのひ)
明治25年(1892年)3月建立
碑・・・総体花崗岩/高さ2,4m/幅0,47m/厚さ0,43m
台座・・・縦0,93m/横1,15m/高さ0,4m
松山城築城に着手した加藤嘉明は、城下町の発展のために、まず石手川の付け替えを家臣の足立重信に命じました(慶長5年〜慶長7年)。これにより洪水被害は軽減されましたが、代償として和泉村周辺では泉が枯れ、水路も断たれて深刻な水不足に陥り、稲作が困難となりました。
この窮状を救ったのが、和泉村出身の森宗勘でした。宗勘は、小野川の水を何とか引こうと幾多の苦難を乗り越え、万治2年(1659年)、54歳の時に藩の許可を得て村総出の難工事を敢行します。
小野川からの新たな水路が完成すると、荒地だった土地は潤い、やがて豊かな良田へと変わり、水不足に悩んでいた小栗村周辺の人々も南岸へ移り住み、地域は大きく発展しました。
さらに、和泉村に水が戻り喜んでいた矢先、今度はかつて小野川の水で潤っていた保免村、土居田村から分水の願いが寄せられます。宗勘は地域の共存共栄のために再び立ち上がり、なんと石手川の川底に水路を作るという前代未聞のアイデアを考案。この世紀の難工事によって、今も残る宗勘樋(そうかんひ)、別名百間樋(ひゃっけんぴ)を完成させたのです。
追遠記念碑
(ついおんきねんひ)
昭和2年(1927年)8月建立
題字:秋山好古/碑文:疇谷春水
碑・・・高さ2,38m/幅0,62m/厚さ0,45m
和泉村にとって、小野川からの灌漑用水は村の豊凶を左右する生命線でした。一方、隣接する朝生田村は水利の便が悪く、当時の役人は和泉村に対し、余水を朝生田村に流すよう求めました。(この頃、既に余水路は完成していました。)
しかし、明治2年(1869年)5月の大旱魃(かんばつ)が発生した際、役人が朝生田村への余水利用を促したところ、和泉村の田植えはまだ終わっておらず、分ける水がありませんでした。この切迫した苦境を後世に残すことはできないと考えた和泉村の村民約60名は、朝生田村へ通じる水路を撤去し、水が流れないようにしたのでした。この事件により、役人によって9名の村民が処罰されました。
この記念碑は、当時処罰された9名の行動が私利私欲によるものではなく、村全体の存続のために尽くしてくれたものであるとして、その功績に感謝し、当時の窮状と苦痛を思いやり、その御霊を慰めるために建立されました。ささやかながら、先人の徳を忘れないようにとの追遠の思いが込められています。


